「念仏まうしさふらえども・・・」   渡邉 昭枝

板橋区退職者会「健友」、創立40周年おめでとうございます。

私は、2004年3月に板橋区を退職し、「健友」のお仲間に加えていただきました。早いもので、以来18年の歳月が流れています。

入会の当初は、まだ、体力も気力も充分にあったと思っておりましたので、ゴルフ部に入れていただき、先輩の方々と緑の芝生をせっせと耕す(笑)日々を過ごさせていただきました。

その後、縁あって、広島の実家である仏教寺院の住職の務めを任されて、かなりの時間を取られることになって、「健友」の交流については、皆様方のご活躍の数々を、「健友」の機関誌の紙面で拝見させていただくのみの生活となって、今日に至っております。

ところで、令和2年初頭から始まった「新型コロナウイルス」の感染拡大の影響で、世界中が、180度変わってしまいました。こんな変わり方は、誰しも、想像すらしなかったのではないでしょうか。皆様は、どのように受け止めておられるのでしょうか。

至る所に「消毒液」が置かれ、「ソーシャル・ディスタンス」の呼び掛けの下、身内の者との日々の生活の場でも、余所余所しさが求められる結果、ご近所の親しかった方が亡くなられても、誰も気づかないか、知らないうちにお葬儀が終わってしまっていることをあとで知らされる有様です。

まさに、仏教に説く「諸行無常」の意味するところの、この世のことは、全て絶対に正しいということなど、ひとつもなく、「よろずのことみなもってそらごとたわごと」の世界で、縁があれば、如何様にも変化してしまう世界であるということを、嫌というほど実感させられる状況にあります。

さて、表題の「念仏まうしさふらえども・・・」ですが、これは、『歎異抄』という書物の第9章に出てくる文言です。800年くらい昔に書かれた書物ですが、今もって“隠れたベストセラー”と言われているようです。

作家司馬遼太郎さんが、「もし無人島に一冊本を持って行けるとしたら?」との問い掛けに、「それは『歎異抄』である」と即答された、と聞いたことがあります。
 わずか30頁ほどの、18章からなる書物ですが、そこに記されている内容は、現代でも、肉弾がわが身にぶつかってくるかのような衝撃さえ感じさせられる迫力を覚えます。

私にとりましても、言わば、“覚悟の書”として、日頃から親しんでおります。そのこともあって、この機会に、その一部を紹介させていただきたいと思います。

本論に入ります前に、「阿弥陀如来」という仏様について、少し触れさせていただきます。
仏教で説かれている三千大世界、東西南北上下には、数え切れない程の仏がおられます。そして、それぞれが、教えを説かれているとされています。

その中の「阿弥陀如来」という仏様は、苦しみ、悩みの一切ない「浄土」という世界を建立し、この世の苦しみを抱えるあらゆる衆生(老若男女、善人、悪人)、そして、生きとし生けるもの全てを救い取るという願い(本願)を成就し、「念仏」となって、私達を“知恵の光”で照らし、“慈悲の心”で包んでくれている仏様です。

さて、本論に戻りまして、『歎異抄』の中での親鸞聖人というお方ですが、多くの方々が既にご存じのように、若年の頃より、比叡山で20年もの間、厳しい修行をされたのですが、悟りに至ることができず、山を下りて、法然上人が説かれていた「念仏ひとつ」の教えに帰依され、90歳の生涯を終えられるまで、「念仏ひとつ」での往生を貫き通されたお方です。

親鸞聖人の教えに心から感銘を受けて、唯円というお弟子さんが、「親鸞は、弟子は一人も持たない、と『歎異抄』にある」が、自分のような者でも、必ず「浄土」に往生できると聞いて、一時は、“天にも昇る気持ちで喜んでいた”のに、やはり、日が経つにつれ、念仏しても、躍り上がるほどの喜びが湧かないし、急いでお浄土へ行きたいとも思わなくなってしまった。

これはいったい、どうしたことでしょうか、と師と仰ぐ親鸞聖人におずおずと尋ねる下りが,表題の「念仏まうしさふらえども・・・」です。

その問いに対して、唯円は、師から激しい叱責を受けることを覚悟していたところ、案に相違して、師は、唯円に対して、「親鸞もこの不審ありつるに唯円坊、おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定と思いたまふべきなり。

よろこぶべきこころをおさへて、よろこばせざるは、煩悩の所為なり。しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおほせられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。また浄土へいそぎまいりたきこころなくて、いささか所労のことあれば、死なんずるやらんと、こころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。

久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだむまれざる安養の浄土はこひしからずさふらうこと、まことによくよく煩悩の興盛にさふらふにこそ。なごりおしくおもへども、娑婆の縁つきて、ちからなくしておはるときに、かの土へはまいるべきなり・・・」と応えて、共に声高にお念仏申す、というのが、『歎異抄』の第9章です。

親鸞というお方は、私にとりましては、宗祖でありますが、それ以上に、人間味溢れる、そのお人柄に深く惹かれて今日に至っています。

私も、いつの間にか“喜寿”を越えました。生身ですので、欲も深く、泣いたり笑ったりの日々です。こうして、日々元気に生かされていることに、驚きと感謝の気持ちを強く覚えています。

思い通りにならないことは重々承知しておりますが、できれば、残された人生を少しでも“世のため”“人のため”に貢献できるよう、「自利利他円満」を心掛けて、最後は、静かにお念仏とともに、旅立てたら最高かな、と思う今日この頃です。 合掌

法名:釋静諦(しゃくじょうたい)

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